贅沢ミニマリスト

「彩透(さいとう)いろ」の小さな暮らし

これを捨てて私は幸せになった。私がミニマリストブログを書く理由。

今日は家族のお話です。私がミニマリストになったルーツ、とも言える私の家庭。

「人を変えたい。だけど人って変えられない。変えられるのは・・自分だけ。」

そんな言葉を巷で聞くと、私は父のことをいつも思い浮かべてしまいます。大きな広い屋敷に溜め込んだたくさんのモノ。

「不潔だから、危険だから、火事になるよ、手伝うから、業者さんに依頼するお金を払うから、一緒にやろうよ、綺麗にしようよ。」

私たち家族が何を言っても処理するどころか、頑なにモノを溜め込む父親の姿。

それはまるで傷ついた父の心を守る鎧のようにも見えるし、バリケードのようにも見えます。

強いこだわりの・・塊。

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モノが少ないと自分を内観する時間が生まれる

この住み心地のいい家に引っ越してきて、気持ち良い風が入ると自然と「父は今何しているかな」と考えてしまいます。だって家族だから。

私がミニマリストになったのは「父親」との関係によるものが大きいのです
 

ミニマリストになるまでに

ミニマリストになるまでに、まず私はマキシマリストでありました。私は多くのモノに本当は囲まれたいわけではなかった。

だけど自分でモノを溜め込んでいました。それは過去の両親のあり方を無意識に引き継いでいたからでした。

ありがたいことに大人になって親と離れたことで気づくことができました。

ミニマリストになる過程のどこかでたくさんのモノも捨てましたが、それ以外に捨てたものがあります。それは「見栄」「人と比べること」。

それに気づけたのは父のおかげです。だけどたどり着くまでにはもちろん紆余曲折ありました。

捨てたら随分生きやすく、気持ちも身体も軽くなりました。幸せって身近にあるのだと思い知らされました。

家の中にある幸せ

家の中に幸せがある

父のことについては簡単には書き切れません。だけど70才近くになった父が、未だ多くの苦悩があることは、こだわり強くモノを年々溜め込む姿を見てよく分かります。

父と社会(家族や友人を含む)の間に。多量のモノというバリケードを張っているように私には見えるのです。

それはいつの日か解消されるのでしょうか。父はモノを整理し、スッキリとした暮らしを手に入れる日が来るのでしょうか。

家族や友人と心を寄せ合う日は来るのでしょうか。

父の人生を見ていて感じることがあります。それは「見栄」も「人と比べること」も人を幸せにはしてくれません。それをしている限り、勝ち負けの世界、レースの中にいるのだと。

私は父のためにできる限りのことはやり尽くしました。親戚と力を合わせて。父の溜め込んだ家の片付けに時間とお金と労力を、力を合わせて注いだ時期もありました。

だけど、父の「心」「気持ち」「意識」が変わらなければまたモノは増えるのです。

むしろ、そんな数十年を経て「相手を変えよう」とする自分の考えを断捨離しました。

父の家は父の領域。父の自由です。

その代わり、私は、自分のモノを捨て始めました。家を磨き始めました。冒頭の言葉にあるように、人を変えることは出来ないけれど、自分を変えることは出来るのです。

むしろ、自分を変えることしか出来ません。

掃除で自分を変えることができる

父が大好きだから、自分が変わることにした

自分が変わることって人が変わることなの?

百匹目の猿現象」をご存知でしょうか。1948年宮崎県のある島で。京都大学の研究グループがニホンザルの観測を開始しました。

数年間の研究期間を経たある時、一匹のニホンザルがそれまでどのサルも行わなかった「イモを海水で洗う」という画期的な行動を取り始めました。

イモを海水で洗って食べれば、おかしい味がするぞと。気づいたのです。

この気づきはサルにしては世紀の発見というべきアイディアだそう。そしてその行動を見たサルが真似をし始めます。1匹、また1匹と。

数年かけて同じ行動を取るサルが臨界値を越えた時(これを例として100匹として)その行動を見ていないその島で暮らすサル達や、数百メートル離れた他の島で暮らすサルたちなどにまで、テレパシーのようにその行動が一斉に拡がったそうです。

このようにある臨界値を越えた時、空間的、物理的な距離を越えて全く交流が無い状況でもテレパシーのように行動は広がる、と言うのがこの「百匹目の猿現象」です。

しかし、この話は実話か?逸話か?架空の物語なのでは?という議論もあります。

どちらにしてもこの物語を私は信じています。そう。自分が片付けをし、心を整え、幸せに生きていれば。

いつか父に届くのではないか。これが私がミニマリストになった理由です。

ミニマリストブログを書く理由

もし家族が手の施しようのない難病にかかったなら。

あなたは何をしますか?薬も聞かない。医者にも何もできない。どれだけお金を積んでもあなたの大切な家族が助かる見込みが無い、と言われてしまったら。

あなたは。祈るのでは無いでしょうか。良くなります様に、と。目に見えない何かに誰かに。話しかけるのではないでしょうか。

私はトイレ掃除をする時。床を吹く時。シンクを磨く時。

いつも自然と「父が今日も事故もなく安全に気持ちよく幸せに暮らしてくれているといいな」という考えが浮かびます。

愛する人のためにできることがあるとするなら、自分が変わり続ける。

それはそれはいつか愛する人に届くのかもしれない。それは私にとって希望でしかありません。

たとえ父が変わらなかったとしても。私の家は綺麗になります。お金はたまります。デメリットは何ひとつありません。

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だから今日もブログで発信させてください

私のささやかな営みですが、今日も1日私が掃除をしてものを捨てて、暮らしを整えていくことを発信させていただいて。

読んでくれているあなたが幸せになればいいな、あなただけの「贅沢」な暮らしを手に入れて欲しいな。何よりこの思いが父にも届けばいいな。

これが私がブログを書く理由、発信する理由です。今日は身の上話を聞いてくださり、読んでくださり、本当にありがとうございます。

この記事を書いている最中、父から「鯖缶」と「クリームチーズ」と「歴史の本(娘に)」が届きました。手紙などはありません。電話もありません。

ヘンテコな贈り物ですが、父なりの精一杯の表現とコミュニケーションに胸がいっぱいになります。もうすでに変わり始めているのかもしれませんね。

大好きで困った私の父の話、また聞いてくださるととても嬉しいです。